”考えたら分かるやろ”の暴力性

昨日の話題に関連して。ずっと前から書こうと思いつつ、書けてなかった話で、懺悔です。正直、自己満足なのですが。

munyon74.hatenablog.jp

若かった頃、特に大学院に進学した頃は、授業料は免除(親の収入により)、院試の成績が悪くて奨学金は借りられず、進学は自活が条件だったので生計を立てるためにアルバイトは週6日、という生活でした。今思えば、いくらかやさぐれていたと思います。人生、苦労してなんぼ、って、思ってました。みんな苦労すればいいのに、とも。

私自身は、京大にも入学でき、所属したソフトテニス部でも少しですが副将として勝つことができ、苦手でコンプレックスだった運動についても、多少克服できました。そういう理由から、この頃は、努力すれば報われる、と思ってましたし、努力至上主義だったでしょう。

そんな中、報道されるさまざまな事件のニュースを聞いたり、周りで起こるトラブルの話などを聞いて、よく「考えたら分かるやろ」と言っていました。世間や身の回りにずいぶん厳しいことを言っていたような気がします。傲慢でした。

「考えたら」というのは、「考えることができる状況」が必要、ということだと思います。その状況にいれない場合もあるわけです。知識がない場合もあるし、考え方がわからない場合もあるでしょうし、本来ならできるのに精神的に追い込まれてしまっている可能性もあるでしょう。

例えば、企業の不祥事だって、ほとんどは本人は悪いとわかっていながら、言い出せないまま、空気に流されてしまって起こっているだろうと思います。ハラスメントなんかもそうですよね。外部からは「なんで言わなかったの」ってなりますが、言えない、言い出せない状況だったことがほとんどだと思います。どんな人でも、いつ、自分の身にそんなことが起こっても不思議ではないわけです。

また、ホームレスの人やネカフェ難民なども、ほとんどの場合、なりたくてなっているわけではない。いろいろな事情が重なっているわけですが、その事情について何も配慮せずに対応したらだめなわけです。

昔はそういう人に対しても「考えたら分かるやろ」と言ったり、思ったりしていたし、”自分は努力してできてるんだから、みんなもやるべき”と考えていたように思います。

これまでにいろいろな経験をして、「考えたらわかるやろ」ということが不可能な状況がたくさんあることを学びました。失敗もしました。年齢を重ねて少しずつましにはなってきているかな、とは思います。

私としては、考えることのできる能力を身につけること、育成すること、考えることのできる環境を整えること、ができていけばいいな、と考えています。

ただ、実際がそんな性質、性格だから「やさしくありたい」と思うのだろうし、ちょっと油断したら悪いところが出てくると思うので、これからも気をつけないとな。