第43回JSiSE全国大会@北星学園大学 1日目で「採択される科研費申請書の書き方」に登壇する

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午前はプレカンファレンス。前半の「教育・学習支援システム若手研究者としてのモチベーションと研究アプローチ」では、林くん@大阪府大、山元くん@近畿大が司会で、柏原先生@電通大、小尻さん@関西大、米谷くん@香川大、田和辻くん@早稲田大が、研究のモチベーションと研究アプローチについて紹介。

柏原先生の”人の学びに貢献したい”、”テーマや問題について分かりたい”をベースにした研究へのモチベーションや関心の持ち方は、すごく共感したし、参考になりました。柏原先生も角所先生と同様に、私の10年後の目標イメージです。

小尻さん@関西大は、研究に対するモチベーションはすごく素直で純粋なものだな、と思います。私とは違うタイプということもあって、ある意味うらやましいです。まあ、ないものねだり、なんですけどね。

米谷くん@香川大、田和辻くん@早稲田大の話、全体ディスカッションも興味深い内容でした。

後半の「採択される科研費申請書の書き方」では、瀬田さん@大阪府立大が、科研費申請支援制度について説明され、3名が科研費申請書の書き方について説明しました。光原さん@徳島大は研究と同様、キャッチーなプレゼンでした。さすがでした。どうやったらあんな発想が出てくるんだろう。うらやましい。

私のあと、仲林先生@千葉工大がご自身の申請書を使いながら、書き方のポイントを明快に説明されました。こちらもさすがでした。

私の方は「科研の審査の仕組みを理解しよう」「審査員の立場になって考えてみよう」という2つの目標をもとに5つのポイントについて説明しました。

・過去の採択課題を知ろう!
・採択された人の申請書を読もう!
・審査員を知ろう!
・審査基準に合わせて書こう!
・第三者に申請書を読んでもらおう!

基本的に、査読論文を書くときと同じような戦略なのですが、わりとやっていない人が多い、ということが分かり、下世話ながら具体的な話をしました。募集要項や審査の手引きなど読んでみるといいですよ。

少しでも役に立ったのであれば幸いです。また、スライドは共有されますので、そちらも参考にしてください。

昼食、全体会、仲林会長の基調講演、企業セッションと続き、インタラクティブセッション、一般セッションでは、教育データ分析やVR/ARの話を中心に聞きまわりました。

飲み会では、14名で楽しく盛り上がりました。

「万引き家族」で考える家族のキズナ

少し前になりますが、映画「万引き家族」を観ました。普段、あまり映画を観ないのですが、これは観てみたいな、と。

gaga.ne.jp

 

第71回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞する、など、公開前からいろいろ話題ではありましたが、実際に観てみると、生々しい日常生活の中に、登場人物の不器用な優しさが随所にみえ、なんとも言えない気持ちになりました。

出てくる家族6人は、誰1人として血がつながっていないわけですが、その分、別のつながりがあり、それは社会に対しての反発?不適応?によるもので、それもまたある意味のもやもや感がありました。血のつながっている家族とは一体何が違うのだろうか、と考えさせられました。また、登場人物それぞれにも物語があり、さまざまな要因があるので、とても複雑なお話だな、と思いました。りんはどちらのほうが幸せだったんだろう、、、と思っちゃいます。

役者陣の演技もみんなよくて、特に最後の信代(安藤サクラ)と女刑事(池脇千鶴)のやりとりは圧巻だったな、と思います。

映画だけでは6人の関係がよくわからない部分があったのですが、それはノベライズ小説のほうで説明がありました。映画を見てから小説を読むと、作品をより味わえるような気がします。 

万引き家族【映画小説化作品】

万引き家族【映画小説化作品】

 

小説を読んで、いくつもいい表現があるのですが、特にささったのがこの2つ。

「自分で選んだほうが、キズナは強いのだ。信代は本当にそう思っていた。」(p.197)

「一度でいいから、「ママ」と呼んでもらうんだった。信代は、そう思った。」(p.253)

この文章で書いてあることは、思い返せば映像からも感じ取れたな、と思います。すごいことですよね。 そして、地の文で読んでも、強いことばだな、と感じます。

 

この評論が個人的にすごく共感しました。家族固有の機能などを使いつつ、説明されていて、なるほど、と思いました。

gendai.ismedia.jp

特に”正確にいえば、「盗んだのは、絆でした」よりも「拾ったのは、絆でした」となるだろう。”というところは、そうだなぁ、と思いました。信代もそう思ってたんだしな、と。

家族のキズナ、というのは、いったいなんなのか、どうやって形成されていくのか、いろいろ考える機会になりました。って、答えってまったくないですけどね。難しいね。

また、もう1度観てみたい映画です。

 

美濃導彦先生退職記念会@ハイアットリージェンシー京都

今日は、美濃導彦先生退職記念会がハイアットリージェンシー京都で開催されました。美濃先生は京都大学で35年間にわたり教員として研究、教育活動に従事されてきました。学生時代を合わせると44年間、京大にいらっしゃったわけですね。

美濃研初期の学生でもある准教授の飯山くんが責任者で、OB・OGで実行委員会を組織し、私は会計を担当しました。

パーティーは、長尾先生、池田先生のご挨拶、美濃先生のご挨拶、富田先生の乾杯、最後に歴代秘書の5名から記念品の贈呈、という形で進みました。

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美濃先生は、私にとっては正直怖い先生(笑)で、院生のときには厳しいこともずいぶん言われました。今でもお話するときには、緊張して背筋が伸びます。でも、本当にやさしく、発言から学生のことを思っていることが伝わります。また、研究に対して、とにかく”おもしろいこと”、”世界で1番になれること”をやるんだ、という思いを強く持っておられて、その点は本当にすごいな、と思います。

美濃先生は私より18歳上、角所先生が9歳上、ということで、一応、先生方を20年後、10年後の目標としています。正直まったく追いつかないのですが(苦笑)。私がD2で美濃研に引き取ってもらった時の美濃先生が今の私と同じくらいの年齢なのですが、全然違うやん、って落ち込みますね。がんばらないと。

 

何度か書いたことあるのですが、美濃研にお世話になることになった経緯を少し。もう20年も前のことですものね。

私は、京大の総合人間学部、人間・環境学研究科修士課程を修了して、教育のことを研究したいということで、博士課程から情報学研究科に移りました。その時に、情報教育講座が新設されて、中村順一先生が着任され、中村研究室に所属しました。ただ、中村先生はご病気となり、休職されたので、行き場のなくなった私はまさに路頭に迷ったわけですが、高等教育教授システム開発センター(当時)にお世話になりつつ、D2から正式に美濃研究室に所属することになりました。

美濃研は画像工学(パターン認識、コンピュータビジョン)の研究室で、まったく分野違いだったのですが、当時UCLAとの遠隔講義を行っていたり、高等教育センターとの連携を始めたり、ということで、教育評価の研究をする、ということでいろいろなプロジェクトに関わらせてもらいました。研究能力がまったくない状況でしたので、本当に迷惑ばかりだったと思いますが、美濃先生、角所先生をはじめ、スタッフのみなさん、院生や学部生のみなさんに良くしてもらって、充実した2年間の研究室生活でした。

卒業後も、いろいろな形で研究に関わらせてもらい、院生や学部生も指導させてもらいました。現在、自分が代表の科研では、美濃研出身の方々に分担者として一緒に研究させてもらっています。

この頃にお世話になった方々には、今でも頭が上がりません。

パーティーの後、ホテルでの2次会、京都駅での3次会、4次会と続いていきました。先生方や後輩たちと久しぶりにいろんな話ができて、とても楽しい1日でした。これからもがんばろうと思います。

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自分が果たすべき社会に対しての役割について考える

8/27から4日間、大阪府立大学で集中講義「教育・学習の理論と設計」でした。今年は4日連続でした。大阪は釜ヶ崎、ゲストハウスのココルームに泊まりました。シングルで1泊3400円で安いですし、地下鉄動物園前駅から近いし、便利ですよ。

 

cocoroom.org

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昨年の集中講義のときから泊まるようになりました。大阪で仕事がある時に泊まったり、新世界などに知り合いを案内する際によったりしています。11月23日には釜ヶ崎芸術大学で授業をさせてもらう予定です。

実家から2キロぐらいの場所、ということで、なじみもあるのですが、実家を売却した今、こういう場所で時々過ごすことがすごく大事だな、と思っています。

夜のまかないごはんをいただく際などに、代表の上田假奈代さんやご飯を食べに来ているいろいろな人とお話できること。今回はアル中を克服した人からお話を伺いました。また、スタッフの方々や見学に来た学生のみなさんと話す機会もあります。学生さんは、釜ヶ崎のような場所が初めてな人も多く、いろいろびっくりするようです。

実家での生活を思い出せば、先日も書きましたが、商店街にある風呂なしの長屋、という狭い家で家族5人で暮らしていました。学校は楽しかったですが、全体として学力が高いわけではなく、小中の同級生で大学に進学した割合もあんまり高くはなかったと思います。私の場合、両親とも高卒でしたが、ラッキーにも天王寺高校という公立の進学校に行けました。ただ、私立には絶対行けなかったので、選択肢としては厳しかったな、と思います。そう言えば、正月にこんなことも書いてましたね。

munyon74.hatenablog.jp

そういうことを考えれば、私はこういった地元の代表、(そこまでじゃないとはいえ、ある程度)貧乏な家の出身として、その役割を果たしていく責任があるのだろうな、と思っています。こんなことを書くと、えらそうではあるのですが。

先日、大阪市長が全国学力テストの結果を教員評価に反映する、と発言したことが話題になりましたが、過度な新自由主義成果主義が広がらないように、きちんと主張していく必要があるな、と思います。

大阪市の学力テストの問題については、武田緑さんが署名活動をされていて、賛同しています。

www.change.org

どうしても学歴の高い人、能力の高い人は新自由主義成果主義を主張してしまうことになる(その気持ちはよく分かるのですが)と思うのですが、社会全体のことを考えた場合には、それだけでは問題が生じてしまう、ということをどうにか理解してほしい。

かくいう私も、若いときはそんなことを思えていなかったし、想像することはとても難しいです。だからこそ、政治家や官僚、エリートやリーダーこそ、いろいろな人とコミュニケーションをとって広く理解していくことが必要だな、と感じます。

母親の介護で老人ホームに通っていた頃、そして釜ヶ崎を歩いていると、”自分は生かされているのだ”と感じます。自分自身が、大学教員、といういわゆる有識者になったので、少しでも社会の役に立つように生きていきたいな、と思います。

 

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西成で銭湯通いの4日間

ココルームに4日間泊まったので、銭湯に通いました。

今回行ったのは、こんなラインナップ。

 

8/26 新世界ラジウム温泉 http://www.radium.co.jp/

8/27 湯処あべの橋 http://www15.plala.or.jp/abenobashi/

8/28 萬盛湯   http://osaka268.com/osakasentou/萬盛湯/

8/29 入船温泉  http://www.irifune.info/

私の実家には風呂がありませんでした。子どもの頃は、本当に嫌でしたけどね。「なんでうちには風呂がないんや!」と(笑)。その後、大学2回生から下宿しますが、風呂なしアパートで、修士2年までそのまま住んだので、25歳まで家に風呂のない生活でした。その後、31歳でセパレートに引っ越すので、授業ではよく「成り上がった」って言ってます(笑)。

この年になったからなのか分かりませんが、銭湯っていいな、と思います。まあ、ノスタルジーかもですが。あと、水風呂に入って温冷浴をします。健康にいいですよね。西成だったからか、久々に全身入れ墨の人、見ました。それもまた味ですよね。 

 

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銭湯つながりで、この小説をご紹介。

munyon74-library2.hatenablog.com

 

 

30年前の大阪の商店街と地上げ屋を思い出す。

25年前(20歳)の話の次は、30年前の話です。

先日、中原くん@立教大のブログにこのようなものがありました。

www.nakahara-lab.net

30年前かぁ。1988年、昭和最後の年。私は15歳。いわゆるバブル期ですね。

泊まっていたココルームでスタッフの方に阿倍野再開発事業の話などを聞かれたので、昔のことをいろいろ話しながら、思い出していました。うちの実家はもともと六軒長屋の真ん中で、借家だったものをローンで買い取っていた(途中だったかも)ので幸い大丈夫だったけれど、80年代には地上げ屋が来ていて、一部の人は引っ越していったことがありました。うっすらの記憶ですが、たしかにすごい人達がいたよね。なかなかなことをやっていたように思います。家も歯抜けになっていったところがあったな、と。ほんまに、昭和、って感じ。

私の実家は、商店街(北畠公園本通商店街)でたこ焼き屋をやっていました。王子商店街など4つの商店街がつながっていて、当時は朝と夕方、歩くのも大変なくらい、ものすごい買い物客でした。今思えば、すごいことだなぁ。小さい頃はおふくろと一緒に商店街を歩いて、八百屋なり、魚やなりで買い物してました。今の時代、毎日商店街に買い物に行く、という生活を送っている人はかなり少ないですよね。スーパー、コンビニで買物、しかも買い置きが日常になってきたのだな、と思います。

地元は、30年前と比べて、大きく町並みが変わったということはないですが、商店街などの様相は大きく変わりました。シャッター通りになっているところもあります。高齢化も進んでいます。

8月に、文の里商店街では”夜市”をやっていました。毎年やっているそうです。賑わっている商店街を体感できるすばらしいイベントですよね。この商店街のそばで、中学の同級生が夫婦でお好み焼き屋をやっていたり、寿司屋をやっていたりします。

「文の里商店街の夜市」 エスマガ交響曲パート2 - 不動産屋の舞台裏 -

「昭和の残り火…」 エスマガ交響曲パート2 - 不動産屋の舞台裏 -


私も高校生くらいのときに、商店街のイベントでヨーヨー釣りとかの夜店やガラガラ抽選会を手伝っていました。まあ、当時はいやいやでしたけども(笑)。いろいろ店の手伝いもしてたなぁ。

そういうところで育ったので、商店街、すごくいいな、って思うんですけど、じゃあ、今の生活で普段の買い物でいくか、と言われるとなかなか行かない。時代の流れって難しいな、と思います。

そんな中、自分に一体何ができるのだろう、と考えます。本当に少しでしょうけど、できることはしていきたいな、と思います。

2018年、平成最後の年。1988年、昭和最後の年。1つの区切りなんでしょうね。

「二十歳(はたち)のとき、何をしていたか?」を考えてみた

昨日、館野くんのこのブログを読みました。

www.tate-lab.net

自分が20歳の時ってどうだったっけ、と。私が20歳だったのは1993年。今から25年前ですね。もう、そんな前かぁ。一昨年、阿倍野にあった実家を売却したのですが、この4日間は実家から2kmほどの西成に泊まっているし、いい機会なので、ちょっと思い出してみました。

20歳、1年の浪人を経て、京都大学総合人間学部の1期生として入学。正直、現役で合格する能力はなかった(理学部を受けて撃沈)のですが、その後に総合人間学部ができた、ということで、浪人したのもきっと運命だろう、と思ってました。わかい(笑)。

母親は実家から通える大学に現役で行ってほしかったようですが、ここは自分の意志(というか、わがまま)を貫きました。私としてはすぐさま下宿したかったのですが、親の反対もあり、浪人していた弟の勉強をみる必要もあって、1年間は実家から、という契約で、2時間ほどかけて大学に通っていました。

私自身はいわゆる優等生だったし、親も放任主義だったので、親に反抗したことってほとんどなかった気がしますが、進学3回(大学、修士、博士)と下宿については、ちょっともめて、最終的には自分の意志を通した感じになったのかな、と思います。まあ、2回生からM2までの5年間は風呂なしアパートに住むんですけどね。まじで貧乏。

高校の時から始めたソフトテニス、運動できないわりに一生懸命取り組んで、レギュラーになったもののほとんど試合に勝てなかった悔しさから、大学でも体育会に入りました。毎日15時から練習で、土曜日は9時から、日曜日は試合、で休みはほぼない、という状況で、かなりブラックだったですね(笑)。しかも実家からだったので、とにかくがむしゃらにやっていました。正直、なんどもやめよう、と思ったのですが、今思えばやめる勇気がなかった、というのが本当かもしれないです。ただ、なんとかがんばるということはできたので続いたのかな、と思います。

授業はあまり出てなかった気はしますが、学部のクラスの友達が”火曜日の会”?(あれ、木曜日の会だったっけ、、、うるおぼえ)なるものを開催し、いろいろな分野に関心のある学生たちが、自分の興味のあることを紹介し、議論する、ということをやってたので参加していました。私は教育関係の話題を提供しましたし、全体として学問のみならず、政治や宗教の話題も結構したおぼえがあります。濃かったですね。

20歳の頃は、とにかくがんばれば何でもできるはず、苦手なことにも挑戦しないといけない、面白そうなことはなんでもやろう、と思っていて、とにかく効率悪かったけれど、好奇心やエネルギーにあふれていたような気がします。今考えてみれば、もっとうまくできたろうに、って思いますけど、若いんだし、無駄があったからむしろよかったのかな、という気もします。

体力的にあの時のようにはいかないですが(笑)、純粋な気持ちを思い出してみようかな、ってちょっと思いました。